名前があると

誰が考えたのか,耐性検査をする/しない問題を起こすことは
休止核発電再開のためのとてもよい戰術である。數日前までは
再開に対する懸念されるのは安全性が確保できているか不明で
あることであった。しかし,安全性の確保とは抽象的すぎて議
論しにくい。そこで,誰かが耐性検査戰術を繰り出した。おそ
らく,これは一部の器機に負荷をかけて配管の堅牢性を試す試
驗であろう。この試驗そのものは確かに保たなければならない
安全性の一部を裏付けるものであろう。しかし,確認すべき点
はここだけではないからね。


今までの経緯からも,そしてこれからの方針としても,全て
運転再開が前提なので,とりあえず検査したことにして,
行っちゃいましょーということになることは皆が思っている。
そして,こういう耐性検査という名前を付け,それを通過させ
ることによって,なにか確認すべき安全性能を全て滿たしたか
のような錯誤を生じさせるだろう。


安全性を検証するために,耐性検査が適切な箇所と,そうでは
ない箇所があると思うのだよ。たとえば,屋根の上に輕油発電
機を置きました。これでごく一部の電源だけは確保!キラッ って
やっているかもしれないけれど,そこの燃料は誰がどうやって
注ぐよ?そういう設計とか運用とかの誤りは耐性検査で調べる
ところではないから。


おそらく,安全性という広い概念を耐性検査はする/しないの
問題に矮小化し,この検査の完了=安全保証で終わらせようと
する案を,本省の誰かが考えたのだろう。ここ數ヶ月的には,
あるいはその本省の誰かの任期の限りにおいてはとても賢い
方法である。

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